和賀の大乗神楽

東北文化財映像研究所 阿部武司

はじめに

 「和賀の大乗神楽」は、盛岡大学名誉教授故門屋光昭氏を抜きに語れない。2004年3月、門屋氏(当時盛岡大学文学部長)の指導で104年ぶりの「大乗会(大乗神楽の特別法会・33番を奉納する)」挙行は記憶に新しく、この成功が「和賀の大乗神楽」の新たな飛躍につながった事は疑いない。

 先学の本田安次氏・森口多里氏の研究成果の上に門屋氏は、各神楽団体の再調査をふまえて大乗神楽の特異性を浮き彫りし、「和賀の大乗神楽」として再位置づけをなし得た。

 「和賀の大乗神楽」が伝承される地域は、岩手県のほぼ中央、北上川と和賀川が合流する北上市と花巻市の笹間地区である。北上市内の大乗系神楽は、保存会連絡協議会を20数団体で構成し、神楽大会や「北上みちのく芸能まつり」に取り組んでいる。笹間には笹間八幡宮(旧萬法院)に依拠する南笹間山伏神楽と北笹間天満宮に依拠する笹間大乗神楽の2団体がある。

これら神楽団体の伝承地域は、旧和賀郡内で藩政時代までは郡内各地の里修験が神楽に深く関わっていた。

 

* 伝承地地図

 

大乗神楽とは

大乗神楽は、山伏神楽に分類されるが岩手県内の他の山伏神楽とは、趣が異なる。本田安次氏は、宮城県陸前浜などの法印神楽の異伝と位置付けている(注1)。雄勝地方の神楽では、一時期「大乗神楽」と呼称していたこともあるが関連性は確認されていない。宮城県の法印神楽でも「大乗飾り」と称する荘厳な天蓋を設えて舞う。

「和賀の大乗神楽」は、天文3年(1534) に開基された南笹間の旧萬法院(現:笹間八幡宮)に由来すると言う。江戸末期、旧萬法院の第17代永岩法印は、神楽再興の為に宮城県涌谷の箆峰寺で法印神楽を習得したと言う。そして嘉永2年(1849)に神楽再興を期して萬法院で格式高く荘厳に飾った神楽座を設え、近隣の修験者と力を合わせ、神楽舞三十三幕を奉納する「大乗会」を行った。(この大乗会に参加した法印の詳細は現時点で不明)

その神楽が、嘉永5年に村崎野の旧妙法院(現:天照御祖神社 /北上市)に伝わり、慶応3年には 和賀煤孫の旧貴徳院(現:古館神社/北上市)に伝えられ長らく途絶えていた神楽を再興し煤孫大乗神楽と名乗るようになった。その他に嘉永年間に飯豊村の宇南神社(北上市飯豊)に伝わり、更に江釣子の旧自性院(現:江釣子神社/北上市)と伝わったとされる。自性院では、明治8年と33年に大乗会が行われ、笹間1名、横川目2名、江釣子1名、飯豊1名、岩崎瀬畑1名、村崎野伊勢1名の法印が参加したと記憶(注2)されている。

和賀町岩崎の伍代院(現二前神社)の文書(注3)によると荒神舞の舞方が記され天和元年・大学院の文字が見える。また別頁(注4)には、演目に続いて舞台切カザリ作法が記されている。更に文書(注5)には初夜榊と後夜榊の祈願文・寛政10年・大泉院御坊と記され、別頁(注6)に演目の割り振りが記され、和賀川周辺の法印達の名が列挙されている。

伍代院文書は、まだ十分解析されておらず詳細は不明だが、嘉永2年の大乗会以前に大乗会が行われた可能性も考えられる。

また、宮古市腹帯の佐々木家文書の文末の別項に「大乗神楽之次第」とあり大乗会を連想させる舞台づくりの秘法が記されている。

本田氏の「江釣子の大乗神楽」の付記に江刺郡羽田村出羽神社にも大乗神楽が有ったとの記載がある(現在は、水沢の鶯沢神楽が、御田植祭に南部神楽を奉納している)。この様に大乗神楽が、藩政時代にどの様な広がりを持っていたのか、明治以降、どの様にして和賀郡内にだけ残ったのか解明すべき点は多い。

 

大乗会とは

明治33年の大乗会の記録によると通常の神楽舞を「平神楽」と呼び、一世一代別当職を引き継ぐときや、本尊開帳の折の神楽舞を「大乗会」と称し、特別に厳しい仕来りや決まりがあった。また大乗会でしか舞わない「鬼門」「天王」などの舞もあり、21日間精進潔斎をした榊舞の伝授者(法印)達が執り行ったと言われる。その時の神楽舞台は、特に厳格な様式があり荘厳で色彩豊かな「大乗飾り」を施した。

 

大乗飾りについて(明治八年大乗会次第)

舞台切飾作法

天龍ハ四尺三寸二分、上の青形ハ二尺二寸、青形ノ間ハ五尺三トナリ。上ゲ巻ハ五色ノカギダレ、上ヘハ天根川トテ、頭ヲ二ツニシテ尻ヲ一ツ作リ、未申ヲ頭ニシテ、丑寅を跡ニシタシ、後ニ三段ヲカザリ、御備三膳、香花、燈明、酒水、向フニ天廿八宿、地ノ三十六禽、梵天を立ル。釜ヲツリ、四門ノガクハ(梵字4文字)、水引ハ五色、四方ニ縄を張リ、十二支十幹、四方角ニ水車、四方ノ中ニ天人カレウビン、登リ龍、降リ龍、羅門小幡ハア天龍ニ付、外ニハ青赤白黒ノ幡、屋根ニ付、ヒジ掛米トテ、拾貳駄、四方ノ角ニ積也。銭拾貳貫、四方角掛ルナリ。

 

明治時代からの大乗神楽

嘉永年間に再興した大乗神楽は、明治時代、神仏分離令によって修験者から離れ庶民が引き継ぎ紆余曲折を経ながらも旧和賀郡内で連綿と伝承されてきた。

江釣子自性院は、本田氏が訪れた昭和6年には神楽から離れているとされるが、江釣子神社社掌の高橋嘉蔵が、三月田(さがた)山伏神楽(自性院の大乗神楽)を主宰し多くの弟子を有し、和賀郡内を巡業していた事が判明した。

嘉蔵の父宮助は、天保14年生まれで江釣子神社をはじめ周辺神社の社掌を兼ねながら三月田山伏神楽を主宰し、明治期は宮助神楽と呼ばれて名を馳せていた。嘉蔵が引き継ぎ宮助以上に領域を広げ、嘉蔵が昭和13年65才で亡くなると弟子や家族が墓碑を建立し名を連ねている。笹間から4名、北上市二子町宿1名、宮古市と伝えられる男女2名の名が刻まれている。嘉蔵亡き後神楽は、弟子達の手で継承されて来た。現在、嘉蔵の孫・菩氏が三月田不動堂(本尊・三日月不動明王)の別当務めるが神楽からは離れ、神楽の道具類は、地元民俗資料館に展示保管されている。

現在、大乗系の神楽は、北上市・花巻市の旧和賀郡内に20数団体があり、和賀大乗神楽・村崎野大乗神楽・宿大乗神楽・上宿和賀神楽・笹間大乗神楽の5団体は岩手県指定無形民俗文化財として神楽舞を伝承している。その他の神楽団体も地域の春祈祷や祭礼で権現舞を奉じている。

大乗神楽は、手次や踏み足、九字など大変祈祷色が濃い所作や荘厳な大乗飾りを持つなど特徴があり岩手県の山伏神楽の一潮流を成している。

 

出演団体紹介

 

「和賀大乗神楽」岩手県指定無形民俗文化財

所在地:北上市和賀町煤孫

代表者:亀田正樹

沿革

口伝では、600年程前、和賀町煤孫の龍頭山馬峰寺の開基「貴徳院円光法師」が創始したとされ貴徳院法印神楽と呼ばれていた。江戸時代久しく中断していた神楽を慶應年間に佐藤寅次郎が、妻の父親・南笹間万法院永岩法印から手ほどきを受け煤孫大乗神楽として再興した。その後、更木の大福院、江釣子の自性院らと共に芸の研鑽に励み保存をはかってきた。

和賀大乗神楽は、佐藤寅次郎以後・高橋多喜蔵・武田三蔵・三田市太郎・武田博・鈴木秋尾と続き、武田忠美から現在へとつながっている。昭和49年岩手県指定、53年には国の記録選定を受けその後、山伏神楽としては特異な存在から和賀の大乗神楽として他の4団体と共に県の再指定を受けた。「榊」を連綿と受け継ぎ、大乗神楽の牽引役として全体のレベルアップに貢献してきた。3人の法印を有する。

元旦には、煤孫の古舘神社(旧貴徳院)に参拝奉納し、別当の武田家で舞初めをしている。3月には、煤孫慶昌寺本堂で定期公演を行い、その他「北上市大乗神楽大会」「北上みちのく芸能まつり」、煤孫集落の秋祭りや各種イベントに出演している。

 

「村崎野大乗神楽」岩手県指定無形民俗文化財

所在地:北上市村崎野

代表者:中野善一

沿革

村崎野大乗神楽は、村崎野に鎮座する天照御祖神社の付属神楽である。江戸中期この地方に農業用水を引いた奥寺八左衛門に同行してきた山伏・佐々木惣三郎が加持祈祷して寛文6年(1666)に水の取り入れ口を見立て9年後に堰が開通し、元禄2年(1689)に神社を建立した。そして周辺の山伏達と和賀山伏神楽を起こし加持祈祷を行ってきたと言われる。幕末にはその神楽も衰退したが、万法院で開かれた大乗会を契機に広まった神楽を取り入れ村崎野大乗神楽として今日に至っている。昭和25年まで神社の宮司・伊勢潔が榊を舞い奉納し、続いて飯豊の斎藤徳重が幕神楽を奉納していたが、昭和29年に中断し権現舞のみの奉納になった。

昭和59年、保存会が結成され、中野善一が北笹間大乗神楽の小原長次ヱ門より榊を伝授、平成8年4月16日春祭りで奉納した。その後も3人が榊を伝授し、多くの演目を復活している。

平成16年の大乗会に際して、宿・上宿両神楽に榊を伝授した。又、鬼門を復活させ大乗会の成功に貢献した。

神社の元旦祭に御神楽権現舞を奉納、3月の火防祭に地域を祈祷、4月16日春祭り、北上大乗神楽大会、北上みちのく芸能まつり、9月5・6日の秋祭り、12月の村崎野・更木・二子地区大乗神楽発表会や各種イベントで旺盛な活動をしている。

 

「宿大乗神楽」岩手県指定無形民俗文化財

所在地:北上市二子町下宿

代表者:及川和生(庭元:千田義弘)

沿革

宿大乗神楽は、明治30年に村崎野妙法院(天照御祖神社・通称伊勢神社)から二子八幡の妙泉院(二子八幡神社)に伝承され再興した。明治34年に村崎野大乗神楽初代「和田永全法印」から二子下宿の「千田行全法印」に榊舞が相伝され、二子大乗神楽として発祥した。高度成長期に一時中断したが、昭和52年に復活、しかし榊舞を舞う法印を持たなかった。平成13年県指定を受けて他の4団体と共に104年ぶりに大乗会を復活する文化庁のふるさと再興事業が計画され、平成15年秋、村崎野大乗神楽「中野法善法印」を師匠に二子八幡神社拝殿で上宿和賀神楽と共に修行し2人が得度し法印号を授与しその後4人になった。

活動は、二子八幡神社元旦祭、3月の宿火防祭で門打ち、北上市大乗神楽大会、8月北上みちのく芸能まつり、9月に二子八幡神社秋祭りと二子いもの子まつり、12月は二子・村崎野・更木地区大乗神楽発表会や各種イベントに参加している。

 

「上宿和賀神楽」岩手県指定無形民俗文化財

所在地:北上市二子町上宿

代表:斎藤克郎

沿革

大正時代に上宿集落の小原和七が、絶えて久しかった和賀山伏神楽の再興を思い立ち、若者達を集め村崎野大乗神楽二代目庭元「館脇法全法印」の指導で稽古を始め、大正11年の火防祭に秋葉山大権現様の門打ちを行った。

 和七は、法全法印の指導を受けて大正12年正月27日に「得度証」と「榊」「荒神」の切紙(免許皆伝)と法印名「法覚」を授かり、上宿和賀神楽として再興し、秋葉山大権現を信仰する集落の万代講を拠り所にして活動している。

 和賀氏の氏神白鳥神社の元旦祭・夏越祭に奉納。宿大乗神楽と共に3月中旬に宿の火防祭で門打ち。9月15日の二子八幡神社の祭礼、7月の北上市大乗神楽大会、8月の北上みちのく芸能まつり、8月下旬の江釣子三月田不動堂の祭礼、9月下旬日曜日の二子いもの子まつり、12月上旬の二子・更木・村崎野地区大乗神楽発表会など多彩な年間行事をこなしている。

 平成16年に行われた104年ぶりの大乗会を目指して法印(榊伝授者3人)となった若者達が主力となって舞の研鑽と後継者育成に力を注いでいる。

 

出演団体の他に花巻市の笹間大乗神楽も幕神楽を行っている。

「笹間大乗神楽」岩手県指定無形民俗文化財

所在地:花巻市北笹間

代表:小原光男

沿革

南笹間萬法院永岩法印が再興した大乗神楽を第一代と数え現在北笹間地域で伝承している。明治に萬法院が修験から離れ神楽は、北笹間の照井賢治(3代目)が継承し現在15代目が継承している。平成13年に岩手県指定になり北上市の4団体と共に大乗神楽の発展に尽くしている。

笹間大乗神楽は、北笹間天満宮の奉納神楽として正月には地域の春祈祷を行い、4月25日の天満宮祭礼、9月25日天満宮秋期例大祭に奉納している。その他近隣の神社の祭礼で神楽舞を奉納している。平成16年11月に嘉永2年万法院大乗会開催155年を記念する法会を地元で行い、北笹間から「笹間大乗神楽」と改名した。

 

大乗神楽の演目を理解する為に

「大乗神楽は本地垂迹説に基づいて舞う」

本地垂迹とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。「垂迹」とは神仏が現れることを言いう。

鎌倉時代になると、逆に仏が神の権化であると考える神本仏迹説も現れた。大乗神楽の本地垂迹は、和賀地方独自の解釈もある。

大乗神楽の神髄は、祈祷舞にある。舞の所作それぞれが祈祷を意味付けられている。

「手次」においては、腰より決して手を下げてはならないとされている。

「踏足」は、修験道の反閇を連想させる。足を踏み出すときは、必ずカカトから床につける原則がある。

 

明治八年大乗会次第

演目名 垂迹神 本地仏

1 舞台入り

2 七ッ釜 神代七代*別項 別項

3 地割 泥土煮尊

沙土煮尊 日光菩薩

月光菩薩

4 棟上 増長天 広目天

持国天 多聞天

5 庭静 國常立尊 小比叡権現

6 初夜榊 降伏金剛夜叉明王 普賢菩薩

7 狂言

8 両殿 貴船大明神

加茂大明神 知勝仏

難勝仏(仁王

9 普勝 國狭槌尊 八王子権現

10 七五三切 歳殺神

黄幡神

豹尾神 千手観音

胎蔵界大日

金剛界大日

11 王の目 伊弉諾之尊

伊弉再之尊 毘廬遮那仏

白山大権現

12 魔王 降伏金剛夜叉明王 天鼓雷音仏

13 狂言

14 地讃 八幡大神

天津児屋根尊 阿弥陀如来

観自在仏

15 荒神 三面大黒 普賢菩薩

16 五大龍 大歳神

大将神

大陰神

歳刑神

歳破神 宝障如来

開敷花如来

無量寿如来

天鼓雷音如来

大日覚王如来

17 湯引

18 帝童 龍女 獅子音仏

19 笹結 天御中立尊

猿田彦尊 毘廬遮那仏

小比叡権現

20 薬師 江文大明神

21 三番叟

22 大乗下 加茂大明神 難勝仏

23 天王

24 正足 大威夜叉王 観自在如来

25 神拝 大戸道尊

大戸辺尊 寂光仏

多宝仏

26 神招請

27 後夜榊 軍陀利夜叉明王 宝生如来

28 蕨折

29 岩戸開 天照大神 猿田彦 鹿島明神 太刀雄尊

30 金巻

31 鬼門 陰陽二神 梵天

帝釈

32 橋引

33 権現舞 熊野大権現 本宮彌陀

那智観音

▲番外:稲荷舞(稲荷神社祭礼に奉納)小山の神(山神神社祭礼に舞う

▲狂言:和賀大乗神楽(上狂言):宝狂言 ツボ草 刀記 (下狂言)戸草長根 寺渡し 三人婿 老母舞

▲葬儀の神楽:和賀大乗神楽では、前代表の武田忠美氏の葬儀(2008年10月15日)「魔王」を舞った。権現舞等も舞う。葬送の神歌「蔵王の歌」がある。

▲ 新宅(家移り)の神楽:玄関から清め塩役(塩撒き)を先頭に、米を撒き、水を振り掛けながら、権現様が四隅で歯打ちして天道廻り(左)に家屋を3周する。

▲ 杵舞(きねまい):神社の遷宮式などで奉納する。「御堂入り」とも言う。

▲ 鎮火御礼参り:火災の後、速やかに秋葉神社に権現舞を奉納する。現場から急行するので服装などはこだわらない。

 

上演演目紹介

帝 童(ていどう)

帝童の垂迹神「龍女」は、仏教の守り神の龍神とされる。本地仏は師子音仏(16仏で釈迦と同様に大通智勝如来を師とする)で、後生の孝を願って舞う。

後生とは、来世のことで、幕掛け言事に「ようよう急ぎ行く程に熊野参りの帝童にて、いざさら出でて若子舞う」とあり「孝」を願って熊野に行く様子が伺える。

更に言事には「エーセンヤー あありゃ 立ち巡れ、立ち巡れ、立ち巡れば科が尚勝る 面白し ごほーぜ(御宝前か?)」更に「鏡見れば」「袂取れば」など女性の日常的な仕草(嬌態)を取り入れており、大乗神楽唯一の女舞いである。

帝童の追っかけ(もどき)が付く場合もある

黒のひょっとこ面を付けた道化が帝童を追っかける。胴と掛け合いながら女を出せと面白おかしく進めまる。胴が「あねっこなら唐の天竺まで行ってしまった」と言うと踊り出し天竺での短歌を交えた面白いやり取りをする。

 

三番叟(さんばそう)真似三番叟

大乗神楽では、翁舞いとして位置づけられ黒面で滑稽なしぐさが特徴。追っかけが出る真似三番叟は、会場を巻き込んでおもしろおかしく演じるが、昔は興に乗った客が飛び出して踊ったという。

人々が末永く無事で長生きできる事を神歌にのって四方を踏み固め、邪悪を浄化させる舞い。

 

幕掛言事

上を見たれば賀茂や桂川。下を見たれば近江川。中を見たれば愛染川とて流れける。さればたのや、おさえおさえに大淀小淀。昔の猿子はあんま拍子にかまえてた。

 

榊(さかき)

大乗神楽最高の祈祷舞いで、法印の資格を有する者しか舞えない。

法印の資格を得るには、7日間神社や寺に籠もって呪法や舞いを師匠に従って修行。その間、肉・魚は禁止、修行者以外の火を用いてはならないなど厳しい仕来りがある。

榊の垂迹神・軍陀利夜叉明王は、不動明王を中心とする五大明王の一人で人間界と仏界を隔てる天界にいる南方の守護神。その他、東は降三世明王、西は大威徳明王、北は金剛夜叉明王。

本地仏・宝生如来は、密教の金剛界五仏(五大如来)の一仏で大日如来(中央)の南方に位置する。宝生如来は、いろいろな宝を生み出す福徳の仏で、あらゆるものは平等であるという精神を説くとされている。

榊の舞いは、手次や踏み足の所作、九字(手印)など随所に修験の呪法が強く残る祈祷舞。

榊舞には、「初夜」と「後夜」があり、昼は「初夜」を舞い、夜は「後夜」を舞うが言事が多少違うが舞はほとんど同じである。45分に及ぶ。

 

榊言事(初夜榊)(本田氏著作より)

△サァテ山ノ神貴徳大王徳ミサギ 上梵天地ノ警願ニヨリヲンヂョウヂ(御上数)ヲハカタトス。

△サァテ達磨清レイ法シ仏ハ葦ノ葉ニメシ国土三年修行シ玉フ事モ 是モ衆生済度ノタメ

△サァテ不動明王ハ身ニハア火焔ノエタギ、コウベ(頭)ニハラアイサンノ彌陀ヲイタダキ玉フ(事)モ、是モ衆生済度ノタアメ この後祈願文入る(省略)

△ サァテ此山ニ久シク出生シ玉フ(事)ハア、況(イワン)ヤ凡夫煩悩ノ悪業ヲ除(シゾ)ギ玉ッフヤ

(後夜榊)

△ サァテ、東ヨリ小松カギワケ出デ日ハ西ヘモマワルココモ照ラショフ

△ 山ノ神 貴徳大王荒ミサギ帝ノワギノ 十五夜ノ月

△ タダコゴヲ ナカドノセギト祝ヘ初メ 千代フル神ハ  コゴゾ舞所

 

七つ釜(ななつがま)

神話の天地開闢にまつわる舞。「古事記」と「日本書紀」の七神は、異なるが、国土のあらゆるものを七神で作った物語を舞にしている。

大乗神楽では、必ず一番目に舞い、面を付けず七人が鳥兜・常衣・袴姿で扇と錫杖を持ちゆったりと舞う。

垂迹神 本地仏

1 國常立之尊 阿弥陀如来

2 國狭槌之尊 薬師如来

3 豊葦渟之尊 千手観音

4 泥土煮之尊・沙土煮之尊 十一面観音

5 大戸道之尊・大戸辺之尊 地蔵菩薩

6 面陀流之尊 龍樹菩薩

7 伊弉諾之尊・伊弉再之尊 如意輪観音

 

七ッ釜言事(台詞)

ヤラ面白や、第一の皇子は何を徳として世を保ち給う。我は國常立之尊として天を保ち給う。

(第七の皇子まで同じく名乗りの前に「ヤラ面白や・・・・保ち給う」と唱える)

第二の皇子 國狭槌之尊として水体を保ち給う。

第三の皇子 豊葦渟之尊として軍を保ち給う。

第四の皇子 泥土煮之尊・サシ土煮之尊として和歌を保ち給う。

第五の皇子 大戸道之尊・大戸辺之尊として五穀を保ち給う。

第六の皇子 面陀流之尊(*面足之尊・吾屋惺之尊)として風体を保ち給う。

第七の皇子 伊弉諾之尊・伊弉再之尊として夫婦を保ち給う。

ヤラ面白や第一の皇子は何を徳として天をば保ち給う。

ヤラ面白や第二の皇子は何を徳として水体をば保ち給う。

ヤラ面白や第三の皇子は何を徳として軍をば保ち給う。

ヤラ面白や第四の皇子は何を徳として和歌をば保ち給う。

ヤラ面白や第五の皇子は何を徳として五穀をば保ち給う。

ヤラ面白や第六の皇子は何を徳として風体をば保ち給う。

ヤラ面白や第七の皇子は何を徳として夫婦をば保ち給う。

ヤラ面白や第一の皇子は天を保ち給わずば国土有るべからず。

ヤラ面白や第二の皇子は水体を保ち給わずば草木有るべからず。

ヤラ面白や第三の皇子は軍を保ち給わずば仏法有るべからず。

ヤラ面白や第四の皇子は和歌を保ち給わずば情け有るべからず。

ヤラ面白や第五の皇子は五穀を保ち給わずば人間有るべからず。

ヤラ面白や第六の皇子は風体を保ち給わずば其の礼有るべからず。

ヤラ面白や第七の皇子は夫婦を保ち給わずば衆生有るべからず。

ヤラ面白や七神の皇子達の御名乗りと受け給わり候、此の神、神楽始まりしよりこの方、年月六萬九千三百八十余年也。湯ぐら釜神は喜ぶ湯ぐら釜、御釜をすえて舞い遊び給う。

ヤラ面白や七神の皇子達の御名乗りと受け給わり候、千早振る千早の袖をひるがえし、千代の御神楽舞い遊び給う。

 

七五三(しめきり)

天岩戸の前に張った注連縄を切る歳殺神・黄幡神・豹尾神の三神の舞いとされる。

この神達は、牛頭天王の子供八人の三神で八方位の吉凶神である。

八将神

1,太歳神 木星の精で四季の万物の成長を見守る吉神。

2,大将軍 金星の精で万物を殺伐する凶神。軍人の神とされる。

3,太陰神 土星の精で太歳神の后である。

4,歳刑神 水星の精。刑罰を司る凶神である。

5,歳破神 大陰神と親戚で土星の精、死亡と盗賊の凶神。

6,歳殺神 金星の精。大将軍の親戚で殺伐を司る凶神。

7,黄幡神 月日の光をおおって「食」を起こすと言われる想像上の星・羅ごう星の精で土を司る凶神。

8,豹尾神 想像上の星、計都星の精で、常に黄幡神の正反対に在位する。

方位神は、古代中国の民間信仰の九星占いから発生している。

歳殺神の本地仏・千手観音菩薩は、衆生をすべて救済すると言う観音。

黄幡神の本地仏・胎蔵界大日如来、豹尾神の本地仏・金剛界大日如来は、密教の仏の中心的存在。

この様に慈悲深く智慧ある仏達が、凶神の姿で天の岩戸の注連縄を切り落とす設定の舞いである。

また天岩戸の注連縄は、天照大神が現れたので再び岩屋に戻らないように封印する為に張ったとも言われる。

 

荒  神(こうじん)

「荒神」は、荒ぶる神の舞。和賀大乗神楽の荒神は、憤怒の赤面で三つの目を持っている。三つの目は、飢渇神・貪欲神・障礙神でそれぞれに災いをもたらす神だが、日本古来より神には「荒魂」と「和魂」の2つの側面があると解釈され荒ぶる神への信心が平和や豊かさをもたらすと考えられてきた。

荒神の舞では、四本の幣束を北東(鬼門)と東西(病門)、更に南東(風門)と北西(乾天門)に立て祈祷し四方より大龍(災い)の侵入を防ぎ、幸いと豊かさを招く。荒神も法印の資格を持った者しか舞えない。

荒神は、カマドの神様として一般的だが、謂われは定かではない。火は煮炊きや暖をとる有益さと火事のように財産を焼き尽くす恐ろしさの二面がある事と関係が有るのだろうか。また火を自在に操る「不動明王」と言う説もある。

三宝荒神については、信仰の違いによって様々な解釈があり、垂迹神と本地仏も違うようである。ちなみに日蓮は、「飢渇神・貪欲神・障礙神は、三毒即ち三徳となる」と言い、弘法大師の説と伝えられる「三は仏教の三昧」で三宝荒神は文殊菩薩とされ「心いらだつときは荒神となり、心静かなときは如来となる」としている。

民間伝承では、古事記の「こは諸人のもち拝く竈の神なり」とあり「大年神」「奥津日子神」「奥津比売神」であるとして三宝荒神は、「大年神」だとしている。

一方仏教的解釈によって「仏・法・僧」の三宝と言われている。

和賀大乗神楽では、荒神は「三面大国」が垂迹神で本地仏は「普賢菩薩」とされている。三面大国は、「三面大黒天」と考えられるが、「大黒天」「毘沙門天」「弁財天」の三神で伝教大師が天台宗の発展に延暦寺に祀ったのが最初で全国に広まった。

「大国」は「大黒」、元々破壊と豊穣の神だが豊穣が残り食物と財福の神となったようで、出雲神話の大国主と習合して古くから信仰されてきた。

鬼門

本来大乗会でしか舞わない祈祷舞で凡そ90分に及び104年ぶりの平成16年の大乗会で公開された。今回は東京での特別公開として30分ほどに短縮して滅多に見られない秘舞を披露する。

 大乗神楽では、通常の舞を平神楽と呼び、「鬼門」と「天王」は「大乗会」の時にしか舞わない特殊な祈祷舞。

鬼門とは、忌み嫌われる方角・北東(丑寅)とその反対の裏鬼門は南西(未申)を一般に言う。陰陽道では鬼が出入りする方角だとされている。鬼門は忌み嫌われるばかりでなく逆に神々が通り、太陽が生まれる方角だから清浄を保たなければならないとも言われる。

鬼門の舞は、寅舞とも呼ばれ「表寅」と「後寅」が、鬼門・裏鬼門の注連縄で仕切られた鍔釜の前で鉾を持って舞い、注連縄を切り落とす。

明治8年の大乗会記録によると垂迹神は、「陰陽の二神」で本地仏は、「梵天と帝釈」となっている。梵天は、古代インドの神で仏教の二大守護神とされており、帝釈天と対で祀られている。「陰陽の二神」は定かではないが役小角の従者の夫婦鬼「前鬼・後鬼」と言う説もある。

装束は、鈴懸衣に結袈裟で裁着袴に手甲脚絆を付け、八目草鞋を履いて法印が舞う。

 

権現舞(伏せ獅子)

権現とは、仏が衆生済度(生あるものの悩みを救い悟らせる)のために、仮の姿(獅子頭)で現れる事。権現様は、神社の祭神や産土神を自らに降ろして地域の安泰・五穀豊穣・人々の無病息災を祈祷する。神仏の供物(米・酒・水)を権現様が祈祷し、参拝者の身体を咬み「身固め」を行う。

伏獅子は、通常の権現舞に扇や剣を持った舞い手が加わり、獅子に扇や剣を呑ませる。獅子は鳴き声をあげながら獅子の体内で清め吐き出す。

伏獅子の解釈は、団体によって違うが、倶利伽藍龍王を表す場合もある。不動明王の使者「龍王」が剣に巻き付き勝利した経文解釈による。大乗神楽の獅子頭には、耳がなく、幕の模様は鱗で「龍」や「蛇」であると言われている。

 

注1:本田安次著作集第四巻陸前浜の法印神楽復刻 異伝編陸中江釣子の大乗神楽p263

注2:村崎野大乗神楽(畠田市左ヱ門著作)

注3:県立博物館マイクロフィルム伍代院文書775-3

注4:伍代院文書775-3

注5:伍代院文書855

注6:文書858―7と8